『死にたがり』は男の宿命的な業病であり、男性性が表現する美しさは究極的には死を必要とする。
と言うことを再確認させてくれた映画『300』
傑作です!!
Zoikhemは常々、女性と男性の間には、其のライフスパンというか時間感覚、そしてその結果として必然的に現れる『己という個の死』の意味合いには大きな差があるように思えてなりません。
『次代』の存在を信じ、子供に己の未来を疑いなく託せる女性
と、
『次代』の存在が希薄で、己という個体の死が世界の死であると感じる男性
と。
長くて百年足らずの時間の中で己を完結させる必要が無いんだろうな、女性は。
とZoikhemは感じるのです。
逆に男性は、長くも無い『持ち時間』の中で、己を完結させ、世界に『傷跡』を残したくて仕方が無い。
とZoikhemは感じるのです。
或る種の不死性を持つのが女性、一代限りの変異種に過ぎないのが男性。
ともZoikhemは見ています。
女性は子宮を連環部に無限に繋がる時の鎖、永遠の連続体。
それに対して男は其の枝葉に過ぎない不連続体です。
生殖という義務を終えた男性は、ありていに言えば『無為徒食』であって、本能的、生物的な目的などは既に在りはしません。
そして、義務の結果の『子供』には(出産経験という究極の『確信』の欠如により)自己との連続性などは感じることが困難なのです。
その結果、男性は生の『結実』を別の形で求める。
その結果、『死』は『生の在り様の結実』として巨大な光を放つ。
『死に様』などという、恐らくは多くの女性にとっては鼻で嗤われてしまう夢想を抱く男性は決して少なく無いはずです。
『死に場所』とかね。
そして、上記のように男性性が求めて止まない『生の意義深い(あくまで個にとって)結実』が成立する環境には高い確率で、或いは必然として『残酷』が発生するのです。
男性性が美しく輝く為の条件として。
死に意義を付与するために(其れが如何に独善的であっても)。
或いは男性性の美しさ、其のものであるのかもしれません、『残酷』は。
民主主義の為だとか自由の為だとか子供らの為だとか何度か作中で語られる戦争の意義は、女性(作中では王妃)が語る場合は真なる熱望として、
しかし男性(王を筆頭とする300人の戦士たち)が言う場合は、なんと言うか『言い訳、または照れ隠し』としてZoikhemには聞こえます。
だって真意としては、ただ美しく己の生を証明したいだけですから、彼らは、恐らく。
ヒロイック、英雄性が宿命的に持つ悲劇性など、当たり前。
望んでいるのですから。
己の生き様(価値観と言い換えても良い)に照らし合わせて納得できる死を以って、生を完結したいのですから。
だからこそ作中で或る登場人物は、ニヤリと笑って死んでいく、わけです。
其の瞬間に男は、将に晴れ舞台の主役なのですから(例え勘違いだとしても)。
おっと、映画の話から逸脱してしまいました(汗)。
斯様に、多くの方にとっては特殊に写るかもしれない『死にたがり』。
Zoikhemには至極単純な、其れでいて現代では表出し難い『男性性の美しさ』を表した映画であると思いましたです。
映像も幻想的で、素晴らしく美しいですしね。
お勧めです。
イベントムービー的に観ると、火傷するかもしれませんけども(笑)。
最後に。
多少ネタバレ気味に。
ペルシア王は非常な筋肉美を誇っていますが、装飾も化粧(アイラインバリバリ)もばっちりです。
其の行動の意義も含めて、Zoikhemには非常に女性的に思えました。
スパルタ王が体現する究極的な男性性と対比させている、と考えるのはあながち間違いではないと思います。
でも好きだなぁ、あの怪演(笑)。
本当に最後に。
見終わった後、いつものようにChoyeと意見を交換し感動をより深くしたのですが、その際のChoyeの一言。
「ごしゅじんさまは『乙女』だと思っていたけど、凄く『マッチョ』でもあるのよねぇ」
判ってねぇな、Choye(笑)。
乙女とマッチョは近いんだぜ。
其の精神的な志向と現実と夢のすり合わせ方が。
乙女でマッチョは当たり前であると思うZoikhemなのでありました。
今夜は完全に暴走です(汗)。
足柄山のChoye
撮った事を忘れておりました(汗)。
仕舞
Zoikhem