2007/Jun/30 Sat | Zoikhemの必修
思想は積荷、人は船
こんな話題は別の場所で書けと怒られそうなので、最近は多少自重していたのですが、それでも堪え切れず、今回は我侭を張らせていただきます。
話の前提としてまず書きます。
Zoikhemは死刑の存在意義を否定しません(出来ません)。
ありていに言えば賛成論者です。
少年法の厳罰化にも一定の理解を示します。
が、これまた同様に前提として。
死刑反対論も否定しません
加害者という存在を無視できない以上、そして『刑罰の懲罰的側面以外の側面』も皆無では無いと考えざるを得ない以上、死刑の特殊性から目を背けてはならないと言う思いからです。
少年法の、応報主義に過剰に踏み込んだ現状の対応には、多少の危惧も覚えます。
前提の結論として。
斯様な一見対立する社会正義は車輪の両輪のような物で、いずれがより真理に近いか、では無くいずれが欠けても真理(の近似値)に近づいていく事は出来ないと、理想論かもしれませんがそうZoikhemは考えています。
同じ『事件』であっても、主体と客体が入れ替われば、求める回答が変わってくるのは当たり前です。
加害者を主体に考えれば刑罰の教育的側面が、被害者を主体に据えれば応報、復讐の『バランサー』としての刑罰が浮かび上がってきます。
ただし、問題はそういった理論や方法論は、そのまま概念として世界には存在し得ない、という事です。
理念は、実存である個々の人間に還流して初めて世界に出現します。
そして、多くの場合において問題があるのは、理論ではなくて、其の個々の人間であるのです。
話を具体的におろします。
加害者を教育し、『責任』を重んじ、復讐を野蛮な物として遠ざける理論。
Zoikhem自身は斯様な考えに深い賛同を持てませんが、一定の説得力を持つ考えである事は事実ですし、斯様な考えを還流した人間には大いに其の考えを精査して頂きたいと思います。
被害者の立場を慮り、其の被害者としての立場を慰撫し、其の自侭な復讐を制御するためにこそ国家が刑罰を代行するという応報理論。
Zoikhem自身の考えは主に此方ですが、斯様な考えだけに凝り固まった刑罰が(そして国家が)個々人にとっては時に度を越えて恐ろしいものにならざる得ず、また人間の、そして国家の無謬性など到底信じる事が出来ないが故に、斯様な考えを持つ己自身(そしてそういった理論の)に対しての自制を忘れてはならないと、そう考えています。
要は、己の考えを神聖視せず、他の考え方に脊髄反射的な拒否反応を示さず、とそういう当たり前な事を考えています。
しかし、加害者主体の考え方は性善説的な理想であり、其の論者は己が当事者ではありえないが故に其の理論の無謬性を、どうも強く信じている方が多いような気がするのです。
応報を求める根拠は、つまるところ『感情』ですが、加害者主体の理想論者の方々には、そういった感情を優先する人間を下に見ているような傾向が有意に在るように思えるのです。
例えば、山口光市事件で湧いて出た多くの私選弁護士たち。
この弁護士たちには、言いたい事が山ほど在りますが、今回は自制します。
聞くに堪えない感情的な罵詈をぶつけたくなりますので(汗)。
今日書かずに居れなかったのは、以下のような国会議員たちの弁です。
ご覧になられた方、そして怒りに悶えた方も少なく無かったのではないかと推測します。
いや期待します。
Zoikhemはといえば、見ながら血が沸騰しました(汗)、特に後半。
参考Linkは
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/997016.html
意見は玉石混交ですけども。
前述しましたが、加害者を擁護する理論自体に其の理論齟齬は内在しません。
内在しないだけです。
其の理論は、対の概念である被害者主体の考えを否定する材料にはなりません。
少なくともZoikhemには、そう思えます。
実は、お互いが全く別の価値を重んじ理論構成しているので、其の目的も結果も全く異なって当たり前なのです。
であるからこそ、だからこそ、議論は尽くされるべきですし、その結果にお互いを否定するべきではない。
連結しない、交差しない線である両理論だからこそ、両者の『落とし所』を模索し、敬意を持ってお互いの存在を許容するべきです。
少なくとも、一方の考えを持つ者が優れていて、一方が劣等者では絶対に無いはずです。
しかし、加害者擁護の責任論を還流した論客たち、特にこの『ネクスト法務大臣』という気持ちの悪い役職名を持つ議員氏からは、相手の立場への慮りを微塵も感じる事が出来ませんでした。
上から教えを下してやっている、という尊大さ、そしてそれと同意義の無神経さ『しか』感じる事が出来ませんでした。
無残な事件の結果、愛する息子を不条理に失い、それでも心を失うことなく歯を食いしばって前を向こうと血のにじむ様な努力をしている女性に対して上の動画のような言葉を、上の動画のような『しゃべり方(これ重要)』で使う人間。
Zoikhemが思う『最も法務大臣にはなって欲しく無い人間』です。
再度書きます。
加害者主体の責任論、教育的刑罰、それ自体は失ってはならない『貴重な積荷』です。
人類の英知が導いた、輝かしい理想の一つである、とさえ思います。
が。
この『船』は泥舟どころか、醜悪極まりない略奪船です。
他の船への、他の積荷への敬意を完全に喪失している。
どれほど輝かしい積荷であっても、斯様に醜悪な船が運ぶ限りは、寄港させてくれる港は少ない事でしょう。
それにしても民主党、この時期に(汗)。
よほど自爆したいのでしょうか?
このZoikhemですら今度の選挙では、現政権政党への投票を色々吟味し躊躇っているというのに。
今回の一件だけでも、それ以上に民主党には投票できなくなってしまいました。
こんな船が『法務大臣』の大漁旗を掲げるなんて悪夢も良いところですからねぇ・・・。
かといって、こんな人間が防衛大臣を務めている現政権もなぁ。
己の立場をわきまえず、思った事をすぐ口に出すようでは…。
言った事其の物よりも、其の軽率さ、そして、其の空気読めなさに怒りを覚えます。
投票したい、投票に耐えうる政党が見当たらない、というのは将に政党政治、議会民主主義の危機であると思いますねぇ…。
最後にしつこく繰りかえし。
Zoikhemは、上記のような積荷(例えば死刑反対論)は否定しません。
積荷を運ぶ船にも頑張って欲しいと思います、向かい風が強くとも。
しかし、少なくともZoikhemの見る限り、斯様な積荷を積んだ船には、何処か乗り合いたくない雰囲気のものが多いような気がする、という事です。
己の正義への妄信が強い方が多い方が多いように見受けられるのです。
要は
『上から見んなや』
と踏みつけられたそんな人間の怒りの代弁でした(汗)。
『ネクスト?お遊戯事なら外でやれよ、ごぼう男。』
今日の画像は掲示板に貼ります。
今夜更新の没選です(汗)。
ただし大きいサイズです。
仕舞
Zoikhem